哲学とクソ人生ゲーム
みなさんも一度は考えたことがあると思います。
『なぜ、自分は自分なのか』
自分は今でも、よく寝る前とか唐突に"これ"を考えてることがあります。
「今持っている意識下はなぜ自分である必要があったのか」「自分が自分としてこの人生を歩む必要性はあるのか」「逆に他人の自我は?世界の動きは?本当に存在するものなのか」
この辺りは小学生の頃からの謎です。
だってそうでしょう!アフリカ大陸に生息するコウヨウチョウという鳥は150億羽、海を漂うナンキョクオキアミは500兆匹、アリは全世界に数千兆匹居るとされていて、その数多くの命の中で、なぜ、たった77億人しかいない人間の1人として自分は自分を意識下に宿したのか。
しかも宇宙を見れば他にも知的生命体はいるかもしれない、なのに、なぜ、この自分??
…謎でしかないのです。
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哲学には「独我論」と呼ばれる見方があります。これは、
〔自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神だけであり、それ以外のあらゆるものの存在やそれに関する知識・認識は信用できない〕という見方です。
哲学者では無いので解釈が難しいですが、
・自分以外はNPC
・現環境下版ロールプレイングゲーム体験中
といった感じでしょうか…。
多分。ドラゴンクエスト・ユアストーリーを観た方がいれば分かると思いますが、ラストでこれがゲームの世界だと教えてもらうまで意識下で理解し得ない状態で人生は進む、あんな感じを今まさに現実と呼ばれるこの世界で体験中だということです。
う〜ん…これ『とても危ない考え方』ですよね。
ちなみに、個人的には否定的な考え方になります。
上手く言えないけど、自分自身の認識下で作り上げた自我の世界なら「もっといい人生ゲームにするわ」が本音で自我になるからです。人生、イージーモードでいいんだよ、イージーで。
ニーチェの「ツァラトゥストラ」では永劫回帰という考え方もあります。
簡単に言えば、今、この人生1回は何回も繰り返すという考え方のことで、「転生、なろう系をぶっ壊す💪」考え方になりますね。
「え、またこのクソ人生ゲーム何回も繰り返すの?」「早くGEOに売りに行って新しい人生ゲーム買いたいんだけど。」
みたいな感情になるんですが、割とこの考えは自己肯定の観点から見たら凄い良い考え方だなと思っています。
今まさに何千何万回目の自分自身、ケロンパスとしてのクソ人生ゲームを周回しているわけです。
クソゲー周回ほど苦痛なものはないです。
8:2で嫌な事だらけの人生ゲーかもしれないですが、何回も繰り返していく人生です。今後も繰り返すなら、いい事の2を楽しみに周回する方が気は楽になりませんか?
むしろまだ8:2と決まったわけではなく、7:3かも6:4かもしれないのです。
クソゲーヤダヤダ、死にたい死にたい言って、また同じクソゲーするのなら、残りのクリアまでの時間を自分の楽しい、楽しめる時間にして5:5ぐらいに近づけるようにしておいた方が有意義だと思うわけです。
そう考えると自負心だとか自尊心だとか自己肯定感だとかも、しっかり、今ここを固め、楽しむ。これで、いい感じな人生ゲームになるんじゃないかなと思うのです。
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長々と書いてましたが、これが今のところの自分なり理解・解釈となるのでしょうか…。
昔、今の悩みは過去の人も体験し、だいたい本や言葉としてヒントを与えてくれるように出来ている。と、習ってから、やっぱ宗教、哲学関係、昔の偉人の言葉などは大きな人生ゲーの攻略ヒントになってるなと思います。
特に「自分が自分である所以」はまだ長い人生の先にあるものだと思いたいですね。
そのためにも自殺RTAだけは避けてクソゲークリアを目指して行きたいと思います。